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むかし教え子、いま仲間。~師弟対談 in Dozen~ vol.1 池田先生×並河先生

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隠岐島前教育魅力化通信『しましま』第13号(2023年7月発行)http://miryokuka.dozen.ed.jp/wp/wp-content/uploads/2023/07/d3962953fd01f4172a16600432f50445.pdf

新企画「むかし教え子、いま仲間。」

このコーナーのテーマは「島前で育まれてきた先生方の素敵なつながり」。初回は15年前に知夫小学校で出会ったお二人の登場です。

今回インタビューした師弟のご紹介

池田 高理[いけだ たかみち]先生
【当時】 知夫小学校3・4年担任
【現在】 海士町教育委員会 派遣社会教育主事

並河 湧斗[なびか ゆうと]先生
【当時】 知夫小学校4年生
【現在】 海士小学校2年担任

毎日、一緒に遊んでくれる先生でした(並河)

まずは、お二人の出会いから聞かせてください。

■池田:初任校だった知夫小で、赴任して1年目に初めて教員として担任をしたのが湧斗。6人の学級だったかな。個性豊かな集団だったよね。その中でも湧斗はリーダーとしての素質を持ってる子だと思っとったよ。当時の僕は教員なりたての25歳で、若くて頼りなかったと思う。たとえば子ども同士が揉めていて「どうした?」とその場に向かおうとするけど「いいです、先生。来なくて大丈夫です」って言われちゃうような感じ。「え!なんで?この子らにどうやって関わったらいいの?」と困ったし、遠慮して子どもと関わっていたようなところがあった。当時の知夫小には、今の島前で管理職をバリバリされている仕事のできる先生方が勢ぞろいしていて。そんな中で僕は、なかなか自信をもてない若手教員だったな。

■並河:そんなふうに思っとられたんですね。実は僕、これまで受験とか教員採用試験とかいくつかの面接を受けてきたんですが、必ず池田先生の名前を出して合格させてもらってきたんですよ。

■池田:えっ!(驚き、照れて顔を隠す池田先生)そうなの?こういうのってホント嬉しい。湧斗にとって僕はどんな担任だったんだろう。

■並河:僕は元々、積極的なタイプではなかったんです。でも、学校の中で唯一の若い男の先生だし、内心はもっと先生と関わりたいなって思ってました。教室にこもりがちだった僕を、池田先生は「遊ぼうや!」と言ってどんどん外へ連れ出してくれた。スポーツもそれほど好きではなかったけど、先生が体を動かすことを通して僕らと関わろうとしてくれたので、いつの間にか野球が大好きになっていて。運動するようになったら性格もちょっと明るくなって。池田先生と過ごしたあの時期がなかったら、今の自分とはちょっと違ったと思うんです。

■池田:当時の自分にできることと言えば、子どもらと遊ぶことぐらいしかなかったけん。昼休みは宿題を見ないけん時もあったけど、中休みだけは必ず子どもと遊ぶって決めちょったな。うまいこと話も聞いてやれん。頼りにならん。そんな自分でも子どもたちとボールを蹴って遊ぶことはできるぞ、と。そうやって自分を保っていたところもあったかもな。

■並河:ふつう、休みの日まで子どもと遊べないですよ。自分は今、当時の池田先生と同じ初任者という立場ですけど、少なくとも今の僕にはなかなかできないです。池田先生は当たり前のようにやってましたよね。

■池田:玄関前のピロティの横んとこでよくキャッチボールしたよね。懐かしいな。自分にとっても原点かもしれない。

教員時代と同じように並河先生を「湧斗」と呼ぶ池田先生。まさに「師弟」という雰囲気

子どもたちの気持ちに支えられてきた(池田)

お二人が教員を目指したきっかけは?

■並河:保育の専門学校へ進学して、途中で大学に編入できることを知りました。編入先の大学では教員免許がとれることもあって、目指そうと思ったのがきっかけです。

■池田:湧斗は子どもの頃からちっちゃい子が好きだったし、面倒見もいいし、教員に向いとるよね。

■並河:そうですかね。池田先生はどうして教員になられたんですか?

■池田:僕は小学校6年生の時に「毎日同じことをするのは向いてない」って思った。当時の自分がイメージしていたサラリーマンって、机に向かってパソコンをカチャカチャしている姿。そういう仕事よりも、日々変化する仕事がよかった。子どもは毎日違う。それで教員になったのかも。湧斗は教員しててよかったなと思うこと、ある?

■並河:講師をしていた1年目も2年目も、担任していた子たちが「先生がいい」と泣いてくれたんですよね。こういうのを、教員冥利に尽きるって言うのかなと。池田先生はどんな時に思います?

■池田:前に海士におった時に担任しとった子たちが、今もう高校生になっちょる。朝、自転車の登校にすれ違うと、手を振ってくれるんだわ。いつまで経っても「先生!」って呼んで慕ってくれるのは嬉しい。日々の仕事で「今日はよかった、完璧だった」って思えることはほとんどないけど、離任とか卒業とかいうタイミングで子どもから気持ちを受け取って、それを支えに頑張ってきたんだなって思うよね。日々やっとることで自分が教員としてしてやれたって思えることなんて本当にないけど、子どもはどんどん変化していく。そういう子どもたちのためならどんだけでも一生懸命になれる。そんな仕事だけんな、教員って。

元々は保育士を目指していた並河先生。「湧斗は子どもと関わるのうまいけんな(池田)」

子ども一人ひとりにじっくり関われる(並河)

先生としての悩み、面白さ、教えてください。

■並河:もう…悩みばっかりですよ。今日も思ったように授業ができなかったなとか、力不足だな、とか。家に帰ってもハァって溜息ついて反省してばかりで。それでも翌日の授業はやってくるから、今の自分にできる限りをやるしかないんですよね。

■池田:わかるよ。僕も「今日はいい授業したな、100点だわ」なんて思って帰れる日は今でもない。教科書のままの授業じゃいけん、いかに子どもたちが面白く取り組めるようにするか。現場で働いてた頃はそればっかり考えてた。先生たちって各々が忙しいし、海士小も小規模校だから相担(あいたん=同学年の学級数が2以上ある学校で同じ学年を受け持つ先生)もいない。先生同士で相談するって難しいよな。困った時はどうしちょるの?

■並河:初任研でお世話になっている先生にも助けてもらってますね。隠岐みたいな小規模だから、こんな自分でも教員の仕事ができてるって思ってます。都会は30人学級が普通で、大変で続けられなくなった同級生もいたりする。子どもたち一人ひとりとじっくり関われる今の環境はありがたいなと。…とは言え今、一日の中で一番楽しい時間は子どもらと鬼ごっこする休み時間なんですけどね(笑)。授業にはまだプレッシャーを感じてしまって。

■池田:今は大変かもしらんけど、湧斗もそのうち授業自体が楽しくなってくるけん。子どもらに任せて学習を進めていけるようになると、教員が予想しとった以上のことを子どもがするようになる。それがめちゃくちゃ面白い。もっといろんなクラスの授業を見に行きゃいいと思うよ。研究授業はもちろんだけど、そうでなくても、先生たちに見せてくださいってお願いして。研修もどんどん行きゃいい。年取ったら、若さだけでは通用しんけん。自分の意識も少しずつ変わってくっけん。湧斗は絶対に印象に残る教員になっけん。そう思う。

「今日の取材のために髪型キメてきたっしょ?」と池田先生にいじられる並河先生!

よう帰ってごしたな。島前を頼むよ(池田)

お互いへのメッセージをお願いします。

■池田:まずは、よう帰ってごしたなって言いたい。島前出身の教員って本当に少ない。僕みたいな島後出身の教員は赴任してきても結局は3~4年経ったら島後に戻ってしまうけん。島前は島前出身の先生が引っ張っていってほしいな。

■並河:小4の頃に池田先生に出会った自分が、今の自分につながっていると思ってます。こうやって教員同士として話ができるのも隠岐に帰ってきたからこそ。本当にありがたいことですよね。

■池田:当時の話とか、どんな気持ちで教員しとるかなんて、こういう機会がないとなかなか話せんけん。自分も元気をもらいました。ありがとうございました。…でもこういうの、改めて面と向かって話すの恥ずかしい。せっかくだから一回飲みにいこうや。

■並河:いいですね。行きましょう。今日はありがとうございました。


子どもの頃の自分を知ってくれている恩師と、大人になって共に働ける環境。初任の頃からずっと自分を慕ってきてくれた教え子に、ふるさとを任せたいと言えること。隠岐で生まれ育った先生同士ならではの濃密で温かい関係性を見て、思わずウルッとしてしまうインタビューでした。こんなふうに人生を共にできるって羨ましいなあ。

聞き手/杉野
書き手/浅井
撮影/根岸

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